下記の2作品はどちらも主人公が女性で、真面目に生きてきたのに人に好かれず苦しむ漫画だ。
それらの感想3割、自分語り7割です。
冬野梅子「まじめな会社員」
1巻初版:2021年
主人公:菊池あみ子 30歳
山岸凉子「天人唐草」
初出:1979年
主人公:岡村響子 30歳
真面目に生きてきた私にとって、「身につまされるなあ」という感情が1番先に出てきた作品であった。
ここにおける真面目というのは、努力家で一生懸命な人という意味ではなく、規範意識と恥の意識が強く、融通が効かなくて面白みがない人のことだ。
まともな人生という狭い狭い平均台から落っこちないように怯えながら進んでいる。
「天人唐草」はよく「82年生まれ、キムジヨン」は主人公の顛末からよくセットにされるが(筑摩書房の公式Twitterでも並べられていた)、主人公の気質はかなり異なると思う。
https://x.com/chikumashobo/status/1173575435407392768?s=46
共通点としては主人公のどちらも、「女はこうあるべき」という世間の声に押しつぶされ、30代に差し掛かったところで自分自身を喪い、発狂してしまう。
が、キムジヨンは主人公の頑張りを上回る女性差別環境に参ってしまうのに対し、響子はそもそも頑張れないのだ。
◯恥
響子の頑張れない性質が環境に作られた部分も大いにあるが、響子は本当に「恥」が強い。失敗することへの恐れが人一倍強く、それがさまざまなことを困難にしている。
私自身も「恥」が強く、しょうもないことが大きな失敗に感じられトラウマになり、次の挑戦に踏み出せない悪循環となっている。
だから母の本棚で見つけた「天人唐草」は忘れられない話であるし、気にしいな母もそういう性分なのだろうと思う。
◯逸機
逆に真面目さを周囲に押し付けるているのが、アガサ・クリスティー「春にして君を離れ」の主人公である。
主人公はアッパークラスの婦人なのだが真面目さを家族に押し付けまくった結果、みな辟易してしまっている。
ヒントをもらったにも関わらず、それを受け取れないシーンは「天人唐草」にもある。
アドバイスした人間のことをとるに足らない人種だと思っているため、アドバイスが響かないのだ。
◯時代と比較
「まじめな会社員」は現代版「天人唐草」だと思う。
響子はお手本のようなバッドエンドだが、あみ子のラストは、バッド(田舎で一生を終える)でもなく、トゥルー(異性に認められる)でもなくノーマルエンド(都会で1人暮らすことを選ぶ)なのがとてもいい。
あみ子がノーマルエンドを迎えられたのは昭和→令和で少し世の中がマシになったことの証左でもあると思う。
私が苦手な展開の一つに「家事スキルを持った女がなんやかんやで異性のパートナーを得る話」がある。結局家庭的なスキルがないと幸せになれないのかよ、と思うから。
だから「逃げ恥」も「凪のお暇」も私のバイブルにはならない。
(祖母-母-娘という女三代に継がれる呪い、不和の描き方で言うと「凪のお暇」はめちゃくちゃ良いのだが)
◯まじめは悪か
仕事は無理でも私生活からちょっとずつ失敗をするようにしたいと思うのだが、怖くてなかなかできない。
と思うと失敗することすらできないのかと自分を責めるもう1人の自分もいて堂々巡りだ。
ただ、私の場合は真面目であったことによる成功体験もあるので、真面目さを完全に否定することはできない。
(提出物全部出す、基本学校休まないを実行した結果、条件の厳しい給付奨学金をもらえたので)
まじめな会社員4巻の後書きでも、まじめさを怠惰なものとして否定したいわけではない、まじめさを評価された成功体験からまじめさをやめたいと思ってもやめられず、卑屈になっていってしまう人向けに漫画を描いたと書かれている。
◯最後に
「まじめな会社員」がなんでこんなブッ刺さるのかというと、自分はギリギリあみ子にならずに済んだという実感があるからだ。
同じ北東北生まれで、潰しのきく学部に進学して、文化的なことに強く憧れている。
私は地方コンプと貧乏コンプが強く、大学時代は急にBADに入ったりしていたのだが、途中からこれらのコンプレックスを「獣」とみなすとことにした。「獣」はいなくならないから、一生飼う覚悟を決め、暗い気持ちが大きくなったら獣が暴れてる〜と思うようにした。
そしたらコンプレックスを抱いていること自体に罪悪感を感じることはほぼなくなったし、もう私の人生だからしょうがないと諦められるようになった。
それと同様に、「強い恥」を心の中で飼う、飼っているという自覚を持つことで、少しだけ荷物を下ろしたい思う。
自覚を持つことが荷物を下ろすことに繋がるのは変な話だと思うだろうが、私は「負の感情を持っていること、負の感情が急に吹き上がること」自体に罪悪感を感じる面倒な人間なのだ。だから負の感情があることを受け入れ、うまく付き合う方向にシフトするというのは、罪悪感を捨てる前向きな第一歩なのかもというのが今のとりあえずの到達点である。